Public Memo For Me

プライベートなメモ帳だけど、公開することで理性を保つ

読書メモ:三行で撃つ

文章術の本ではない。生き方を問う本である。

どうやったもっとうまく文章を書けるようになるのか、漠然をとした悩みを抱えており、その足しになると思い、本書を購入した。読み進めていくと、最初こそテクニック論があったが、途中からは文章を書くこととは何か?をグッと掘り下げていった。やや拍子抜けをしたが、読み進めていくと、沼にハマるかのように筆者のワールドに引き込まれていく。

その中でも特に気に入ったのはフレーズは、

言葉にならない感情、言葉に落とせない思想は存在しない。 言葉にならないのではない。はなから感じていないし、考えてさえいないのだ。

なるほど。

映画を見たときや小説を見たとき、私たちはどこかで聞いたような言葉でそれらを形容する。例えば、「X感動した」、「勇気をもらった」、「泣けた」など。その言葉に偽りはないのだろうが、どことなく浅さを感じずにはいられない。なぜか。自分の感情や思想に対して真摯に向き合っておらず、どこかで言語化することを諦め、借りてきた言葉で自分を納得させようとしているのではなかろうか、と本書は問う。

同じことが仕事でもある。話しを聞いていて、どことなく薄さを感じるとき、その人は借り物の言葉で話していることが多い。もっと仕事を自分ゴトとして捉え、それを正しく形容する言葉や文章は何か、を考えていかないと、薄っぺらからは卒業できない。

「コトバにできないものはない、しっかり感じてコトバにしろ」。これは即ち、「よく生きろ」ということである。では 「よく生きる」とは何か。それは1つ1つの事柄に対して真摯に向き合うことではないか。T V、YoutubeSNS、といった上限なく触れることのできるメディアがあふれ、その結果として情報過多になり、1つ1つ情報(文章)に対して脊髄反射的になっている、向き合えていないと自分でも感じる。(この辺は宇野さんの著書、「遅いインターネット」に何かヒントがある気がしている)

結論、文章が上手くなりたければ生き方そのものを見直す必要がある、と本書は訴えている。


蛇足1: 本書を読むと、ライターの奥深さや文章に対する執着心がいかに高いか、畏怖の念を抱かずにはいられない。Web記事があふれる昨今、ライターという存在が良くも悪くも身近なった。それゆえ、私はライターという職業がそれほど専門性の高い職業であるとは思っていなかった。しかし、この本を読むと他のプロと同じように大量の文献を読みコトバに拘り表現に拘り文章をひねり出していく様は、高いプロフェッショナリズムを感じることができる。

蛇足2: このブログを読むと、「精神論の本ね」、と勘違いされるといけないのできちんと書いておく。本書の中では、勿論文章に対する技術論も述べている。それは文書におけるスピード、グルーブ、リズム。またそれだけではない。媒体への最終アウトプットを意識するために、文書を印刷し、密集状況を確認しる。例えば濃すぎると感じれば、漢字をひらがなに変換する。ここを読むと、文章の集合体が織りなす雰囲気ですら文章の一要素なんだということが実感できる。